塩澤 実信 氏より (書籍「比較日本の会社 出版社」より)
このページは、書籍「比較日本の会社 出版社(塩澤 実信 著)」から、良かったこと、教え学んだこと、共感したこと、気づいたことなどを取り上げ紹介しています。
・一ツ橋グループに育て上げた小学館のオーナー相賀徹夫氏は、出版界の将来について、「誰にもわからない。ある日、突然変わるということはないでしょう。徐々に徐々に変わっていく。すべてのものが複合化されて存在していくと思います。出版も活字だけではなく、音とか映像とつながったり、別のものとつながったり、その中で生きていくでしょう」と語っている。
また、「文藝春秋」を“国民雑誌”といわれるほどに伸ばした名編集者池島信平氏は、「出版界ほど根の浅い事業はない。わずかばかりの経済的変動でも、それが出版界に波及すると、激動となり衝撃となる」と、その生前に語っていたが、一世代余を経た今日でも、この言葉はそのまま通用すると考えられる。
・出版業者になることはやさしいが、長つづきすることはむずかしい。出版界の幼児死亡率は高い。---- サー・スタンリー・アンウィン
・占領軍全般に対する中傷、誹謗するたぐいの発言と批判が取り締まりの対象で、過去の軍国主義の賛歌、飢餓の誇張までもチェックされた。4年間に検閲を受けた書籍、小冊子類は4万5000点、雑誌は1万3000タイトル、新聞1万1000タイトルの計7万点に及んだ。(中略)
45年9月に閲覧制度が確立された時、すべての編集者、出版事業者は次のような極秘通告を受けていたのである。それは4項目から成っていて、2項目が問題だった。「二、全出版者は出版物の組立てに当り検閲の具体的証拠を-----(例えば墨で印刷面を抹消するとか、糊付にするとか、余白を残すとか、○○や××で使用するよ言った風にするという事を)現わさないようにする事」と、厳命されていた。
・講談社空前のベストセラーとなった黒柳徹子の『窓際のトットちゃん』にして、初版2万部だった。
・講談社から衝撃のタイトル『五体不満足』で出版された乙武洋匡の初版部数も6000部----2年後には500万部を越える大化け本がこんな僅少部数だった事実は、大手出版社のベテランにして、刊行してみないことにはわからないようである。
・『世界の中心で愛を叫ぶ』も、初版は8000部だった。
・『バカの壁』の「まえがき」で、養老はあっけらんかんと、そのあたりを語っている。「これは、私の話を新潮社の編集部の人たちが文章化してくれた本です。対談や講演を文章化するのは、よくやることです。
・4260社の出版社と2000に近い編集ブロダクション、数十社の取次、一万数千店の小売店が生業をたてている。
・一点一点が新商品-----リスクが大きい出版業
・将棋の元名人、米長邦雄九段はある講演で「ベテランはなぜ、若手の強豪に勝てないか」に話題が及んだ時、次のように語っていた。「年配棋士は、得意の戦型が忘れられない。その戦型で勝った記憶が忘れられない。もうその戦型は通用しなくなっているのに」
・1996年度は年間創刊点数が史上最高、933点という驚くべき数だった。(アメリカの雑誌動向)(中略)
特定のきわめて限られたテーマに絞り込んだ“ニッチ(隙間)雑誌”の創刊も盛んで、実に史上最高の900点を越す新雑誌の99%が、小部数のニッチ雑誌だったといわれている。
・書籍の特色
2、多品種少量生産の原則で、一点一点がすべて新製品である。これはオリジナリティを原則として生産されている出版物の宿命であって、年間に出版されるおびただしい書籍は、その一点一点に新しい生命を懐胎し、受け手である読者に多様な語りかけ、影響を与えていく。
6、代替性がない。一般商品だったら、性能だの形態だの、色彩、定価によって、使用目的が一致していれば売り替えていくが、書籍は特定の著者の考えや美的感覚、主張を求めているのであって、他の類似本で間に合わせることができない。
・雑誌の起源
その発生に遡ると、寛文5年(1665年)、フランスの法律家ズニーズ・サルの創刊した「ジュルナール・デ・ザヴァン」だといわれている。これは、ヨーロッパで出版された新刊紹介のカタログ誌であった。
やはり同じ年に、ロンドンでイギリス学士院の会報が発行され、これも定期的に発行された冊子形態のものであった。マガジンという名称を初めて用いたのは、「ジェントルマンズ・マガジン」であった。
知識人向けの一種の総合雑誌を目的としたものであった。日本で「雑誌」という名をつけた最初の定期刊行物は、慶応3年(1867年)に柳河春三が創刊した「西洋雑誌」であった。
しかし「雑誌」という言葉を付けた刊行物は、それ以前にも何点か出ていた。文化6年(1809年)の「燕石雑誌」、同13年の「北越雑誌」、嘉永5年(1852年)の「征韓雑誌」などがそれだが、これは随筆集に「雑誌」の文字を使用しただけの単行本であった。
また、初期の頃の雑誌は新聞との区別がなく、雑誌とは称するものの新聞であったり、新聞と言いながら雑誌であったりした。
その著しい例として、明治4年(1871年)に木戸孝允の出資で「新聞雑誌」が創刊されたりしている。しかし、「雑誌」らしい「雑誌」は明治7年(1874年)3月、月2回刊で創刊された「明六雑誌」がその濫觴であろう。
明治6年、アメリカ弁理公使から帰朝した森有礼の提唱によって結社された明六社から、新しい思想の啓蒙めざして発行されたものであった。
そのメンバーは当時の最先端を行く洋学者で、森有礼を筆頭に福沢諭吉、西周、西村茂樹、津田眞道、加藤弘之、中村正直、杉亨二、箕作秋坪、箕作麒祥の10名であった。
誌面を埋めた論説は当時としては目をみはる新しさで、毎号平均三、二〇〇部を発行したという。
西欧の文化に学んだ森有礼、福沢諭吉らは、合理主義精神に立って、国民の啓蒙をこころざした。その編集方法は、創刊号の巻頭に宣言されていて、「一八以テ学業ヲ研磨シ 一八以テ精神ヲ爽快ニス」であった。
誌面は、「瑣々タル小冊子ナリト雖モ、邦人ノ為ニ知識ヲ開クノ一助……」をこころざしていただけに、130年後の今日に読んでも驚嘆すべき論を展開していた。
たとえば、創刊の巻頭論文に、西周の「洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」というローマ字論が掲載されていた。このほか、毎号誌面を埋めた論文は目を見張る新しさだった。
しかし翌8年、個人の名誉を保護するという大義名分のもとに制定された讒謗率がまかり通るようになって、11月に43号で自主的に廃刊した。
74年後の昭和23年、「明六雑誌」の編集方針を知り、「一八以テ精神ヲ壮快ニス」のさわやかさにあやかろうとしたのが、「文藝春秋」編集長の池島信平だった。
彼は一一読、精神を爽快にするような気魂にみちた雑誌を、一生に一度でよいからつくってみたい」と念願し、「文藝春秋」に斬新な企画を次々と登場させたのだった。
・エディター武芸一八般(池島信平氏)
一、編集者は、まず企画を樹てなければならない。
一、編集者は原稿をとらなければならない。
一、編集者は文章を書けなければならない。
一、編集者は校正する。
一、編集者は座談会を司会しなければならない。
一、編集者は絵画と写真について相当な知識をもっていなければならない。
一、編集者は広告を作成しなければならない。
・慶鷹2年(1866年)に福沢諭吉が出版した「西洋事情」がいきなりベストセラーとなり、(中略)この頃の日本の人口は約3500万人。識字率が30%程度と見たとき、字の読める者の四人に一人は『西洋事情』を読んだことになろう。
●書籍「比較日本の会社 出版社」より
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