書籍『岩波新書の50年(岩波書店編集部 編集)』より
このページは、書籍『岩波新書の50年(岩波書店編集部 編集)』から、良かったこと、共感したこと、気づいたことなどを取り上げ紹介しています。
・今日、出版界では新書と名づけられるシリーズは相当数にのぼるが、新書と名づけたのペーパーブックスの嚆矢は岩波新書であった。
・岩波新書新刊年別刊行点数
1938年 23
1939 31
1940 24
1941 6
1942 11
1943 1
1944 2
1945 0
1946 3
(以下赤版)
1947 0
1948 0
1949 24
1950 29
1951 29
1952 38
1953 32
1954 37
1955 37
1956 36
1957 36
1958 35
1959 35
1960 36
1961 35
1962 34
1963 36
1964 36
1965 36
1966 36
1967 48
1968 36
1969 36
1970 36
1971 35
1972 36
1973 35
1974 36
1975 36
1976 37
1977 45
(4月まで青版)
1978 35
1979 37
1980 36
1981 36
1982 38
1983 36
1984 36
1985 37
1986 36
1987 36
(以上黄版)
・作家の堀田善衞氏は「岩波新書は私にとって問屋のようなものである」といわれ、映画監督の吉村公三郎氏(一九七九年『映画の演出』を新書で刊行)は「岩波新書は親切な家庭教師である」と述べられておられる。
・新書はとくに定価が安いから一冊一冊をみると利益ははなはだ少なかった。(中略)当時は初版部数は約四万部であったが、五万部にすることを目ざした。
・岩波新書新刊のページ数は原則として二二四ページとして、口絵一丁、図版数は二五―三〇(※25~30)とする内規をあらためて設定した。
・岩波新書は従来から、正味の問題をも含めて、本来商取引は個々であり、画一的な要求や、集団的交渉は認めないとの立場をくずすことなく、これに対処した。
・岩波新書のそもそもの出発のときに赤・青・黄・緑・セピアの五色にするという案があった
・ところが、これには岩波茂雄が断固として反対でした。岩波の考えでは、新しい双書を世間にはっきりと印象させるためには、むしろ一色でゆくべきであって、多彩にすることはわざわざ印象を散漫にさせてしまう、というのでした。(※赤・青・黄・緑・セピアの五色の装丁で行こうとしたところ)
・岩波新書という名前は、この双書の造本を担当していた長田幹雄の提案したもの
●書籍『岩波新書の50年』より
岩波書店編集部 編集
岩波書店 (1988年2月初版)
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