書籍『マンガの教科書』(清水 勲 著、秋田 孝宏 著、内記 稔夫 著、吉村 和真 編集)より
このページは、書籍『マンガの教科書(清水 勲 著、秋田 孝宏 著、内記 稔夫 著、吉村 和真 編集)』から、良かったこと、共感したこと、気づいたことなどを取り上げ紹介しています。
・二〇〇一年(平成一三)には日本マンガ学会が設立。二〇〇八年現在、会員は四〇〇名を超え、大学の教員・学生だけでなく高校や中学の教員も所属している。
・コミックはストーリー漫画ともいわれる。(中略)二〇コマぐらいの漫画は明治期にもあったが、一〇〇コマを超えるようなストーリー漫画が現われたのは大正期に入ってからである。それは、岡本一平が生み出した「映画小説」、「漫画小説」あるいは子供向けの漫画絵物語あたりがその源流だと思われる。
・戦時中には、品不足から、古本屋が貸本屋を兼業して都内にも六〇〇軒ほど存在していて、保証金を預かる形で貸本をしていた。戦後の昭和二三年(一九四八)神戸市の一角で開業した、「ろまん文庫」が保証金を取らずに信用貸しで貸本を始め、これが当たって全国的に「ネオ書房」を始めとする、戦後型の貸本屋が広まっていった。
・貸本屋も増加の一途をたどり、ピーク時の昭和三五年(一九六〇)には、全国に三万軒、都内に三〇〇〇軒在ったといわれる。都市部では、銭湯の煙突を目指していくとそこにには必ず貸本屋が在り、全国の小学校の数より多かったといわれている。
・昭和三五(一九六〇)をピークに貸本屋の営業に陰りが見え始めた。開店ラッシュの頃は、向かい同士や二、三軒先の並びまで開店するものがいて、貸本組合は距離協定まで作った。その頃は近所に貸本屋が出来ても逆に波及効果で客足は伸びた。しかし、その後は閉店があっても売り上げは増えないどころか、下降ぎみになっていった。庶民の娯楽は貸本からテレビへと移行していった。
・『ヤマト』ブームが始まる。昭和五二年(一九七七)に公開された劇場用アニメ作品によって、ブームは社会現象になった。公開初日の映画館の周りを、上映を待ちきれないファンが徹夜で取り組んだのである。日本映画で徹夜が出たのは初めてだとうことで、ニュースもこぞって取り上げた。
・この「ナニワ金融道」に描かれたのは、街金という「蟻地獄」も、時に自ら足を踏み入れ、時にまんまと誘い込まれ、どこにもでいそうな「普通」の人々が道を踏み外していく過程であった。
・マンガ出版事情の推移やその背景については、中野晴行『マンガ産業論』(筑摩書房、二〇〇四年)や『創』(創出版)が定期的に組むマンガ特集に詳しい
・エッセイマンガの特徴(中略)
エッセイマンガなので日常生活に関する出来事を取り上げながら、読者にも同じような体験があると思わせる「あるあるネタ」は、普段気にしないことでもよく考えてみればそうだよね、といった「なるほどネタ」に分類できる。
●書籍『マンガの教科書~マンガの歴史がわかる60話』より
清水 勲 著
秋田 孝宏 著
内記 稔夫 著
吉村 和真 編集
臨川書店 (2008年8月初版)
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