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大野 茂 氏 書籍『サンデーとマガジン』(光文社 刊)より

このページは、書籍『サンデーとマガジン』(大野 茂 著、光文社 刊)から、良かったこと、共感したこと、気づいたことなどを取り上げ紹介しています。


・線の太く丸いメジャー漫画家の獲得、“さわやか”イメージ戦略、正統派ギャグ漫画路線を掲げるサンデー。他方、マガジンは、原作と作画の分業体制、情熱的な“劇画”路線と巻頭グラビア大図鑑を展開


・音羽グループ

講談社
光文社


一ツ橋グループ

小学館
集英社


・批判の矢面に立たされたのはマンガだった。ほとんどのマンガは、内容に関係なく“マンガである”というだけで、悪書のレッテルを貼られた。(中略)「活字と違い、マンガは子どもの思考力を阻害する」、「マンガは読むとバカになる」という俗説が大手を振ってまかり通って行くようになる。


・今から遡ること100年ちょっと前、明治末期の新聞にこんな記事が載せられていたという。


  近年の子供は、夏目漱石などの小説ばかりを読んで漢文を読まない。これは子供の危機である。


歴史は繰り返される。文豪の作品もまた、悪書だったのである。


・「別に日曜発売ってことじゃないんですが、この雑誌を読むとまるで日曜日のように楽しい気分に浸れるような『少年サンデー』って名前、太陽のイメージで、明るくっていいでしょう?月~金は学年誌、土日はサンデーを読もう、ってどうですか?」

※豊田 亀一 氏談が新年会の席で社長、相賀氏に話した言葉


・どんなマンガにするか?豊田は、デッサンが確かで、色がきれいで、健康である、というのをすべての掲載マンガの基準とした。


・社内にすら内密にされていた少年サンデーの情報が、なぜ講談社に漏れたのか?これには諸説あり、半世紀の時が経ってしまった今では、真相のほどは藪の中である。一説によれば、印刷所から情報が漏れたという。(中略)


噂を聞きつけた講談社は、なんと大胆にもサンデーと同じ印刷所に新雑誌の印刷を依頼したのである。


・タッチの差でサンデーは藤子不二雄(藤本弘〈1933~96年〉、安孫子素雄〈1934年~〉)を押さえたことになる。マガジンは2日違いで大魚を逃すことになった。


・当時、日本全国にある小売書店の数は約3万。それらが、単行本系の本屋、雑誌系の本屋と大別され、さらに、出版社別に文春・新潮系、小学館・集英社系、講談社系と色分けされていた。そのなかで1909(明治42)年に大日本雄弁会として創立以来の長い伝統を誇る講談社の流通への支配力は突出していた。ライバルの講談社は「売れる仕組み」を作ることにかけては総合力で他を寄せ付けないものがあった。


・次号では、最初の部数より落ちます、必ず。1号から2号でがぐっと落ちるのは常識なんですよね。


・「毎週マンガが読める」。それは、子どもとってと大人にとってでは、全く逆の意味を持つものだった。悪書追放運動が依然として渦巻いているなか、マンガ中心の週刊誌を出せば、「毎週毎週マンガを子どもに読ませるのか」という批判の矢が飛んでくるのは火を見るより明らかだ。


そこで、、それを少しでも緩和するため、サンデー、マガジンとも、スポーツ記事や科学読み物、“もし知り百科”的な内容を入れ、「これは、あくまでも少年向けのニュース情報誌です」という趣旨でスタートしたのである。


実際、マガジンの創刊号におけるマンガの比率は、たった37%である。ただし、別冊付録(3冊で計134ページ!)を加えると、60%にまで跳ね上がる、実はこれこそが、週刊誌を売るための切り札として、マガジン牧野編集長が選んだ手法だった。


・毎週毎週、描かねばならない週刊誌のペースとなると、話を作る作業にかけられる時間はほとんどない。(中略)牧野が考えたのは、編集者が企画を立て、その内容に合わせて原作者やマンガ家を人選して、マンガの作品を一から組み立てる、編集部主導のプロデュース方式である。マンガ家1人の能力にすべて依存している業界の現状から脱却するために、これは画期的なアイデアだった。


・赤塚(不二雄)は、人物の顔を予め(あらかじめ)8面相くらい決めると、それらとは別に①②・・・・・・と番号を振って、首から下だけの人物を数体描いていた。そうすると、アシスタントが、その当時出たばかりのセロックスの複写機でコピーした顔を番号に従って顔なしの体にペタペタ貼り付けいくのである。赤塚のギャクは革命的だったが、作り方も革命的だったのである。


・水木しげるは、戦争で左腕を失っていた。戦後は紙芝居を描いてなんとか食っていたが、それも衰退し、貸本マンガ家に転身していた。だが、貸本マンガ家たちの現実は厳しく、原稿料が安くてとても食べてゆけない。


・東京・調布の深大寺にある仕事場を訪ねた内田は、息を呑んだ。水木は、体をよじって腕のない左肩で紙を押さえ、ぐわっと見開いた眼は紙から数センチのところで、残った右手で執念を込めるようにして墓場の場面をコツコツとペンで点を打ちながら描いてゆくのである。


・『巨人の星』(中略)ストーリーコンセプトはもちろんであるが、この作品が画期的であったのは、表現面での斬新さであった。今ではショックの代名詞である「がーん」という擬音表現は、このとき川﨑がマンガ史上初めて使用したものである。


・上を向いたらキリがない 下を向いたらアトがアトがない
さじをなげるは まだまだ早い
五分の魂・・・・・・泣いて泣いてたまるかヨ 夢がある


・『劇画入門』(絵はさいとう・たかお)。その冒頭に掲げられたのが「1枚の絵は1万字にまさる」------のマニュフェストである。その一部を紹介すると、

一枚の絵が伝える情報量は、ときには、数万個の文字と同じことがある。アポロ十一号が持ち帰った月面活動の写真一枚は、過去数千年の人類の歴史のあいだに書かれた、数億、数兆個の、月に関するおびただしい文字よりも、はるかに大きな情報を、私たちに与えてくれた。


・架空人物の葬儀(中略)

大阪万博の開幕から10日後の3月24日、こちらは東京・音羽の講談社の前。(中略)


力石徹 告別式 受付


実在の人物の葬儀ではない。マガジン連載中の『あしたのジョー』のライバル・力石徹というキャラクターの葬儀である。


・「少年サンデー」は、1970年代後半から、「ラブ・コメディ」という金鉱脈を掘り当てる。あだち充『タッチ』、高橋留美子『うる星やつら』などの大ヒットで、少年誌でありながら、女性の読者を増やすという新手の戦略で、230万部まで部数を伸ばした。


●書籍『サンデーとマガジン~創刊と死闘の15年』より
大野 茂 著
光文社 (2009年4月初版)
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