南 博 氏 書籍『初歩 心理学~人間関係をよくする道具』(光文社 刊)より
このページは、書籍『初歩 心理学~人間関係をよくする道具』(南 博 著、光文社 刊)から、良かったこと、共感したこと、気づいたことなどを取り上げ紹介しています。
・無意識のうちに強い欲求不満があるとき、意識や行動のうわべでは、その欲求をはげしく否定する反対表現の一種とみてよい。だから、「性は不潔だ。」という意識の強い人のなかには、しばしば、無意識のうちに、性を渇望しているばあいがある。
・本を読みだしたらやめられないという人は、いかにも読書しようという意思が強いようにも考えられるが、それは固執の傾向が強くて、切りかえの能力は弱いわけである。
・抑制過剰(中略)
たとえば、ネクタイを買うとき、かならず友人をつれて行って、柄をえらんでもらう。これは友人の意見を尊重するからなのではない。無意識のうちに友人に責任をとらせ、もし、だれかから、そのネクタイは品がないとか悪口を言われても、「いや、これは、おれが選んだんじゃない。」と、責任を回避する心理がはたらいているのである。
・「自分は意思がよわい。」と思いこんでいることがある。それは、多くのばあい、なまけ者の自己弁護であって、意思の力をみずから、きたえようとしない人である。このような「決意」や「執着力」のおとろえは、なにかの理由で、体と心のエネルギーが大量に放出されたままで、その補給ができない心理状態からくる。
・「記憶」のはたらきは、つぎのような四つの段階をふくんでいる。
(一)記銘(印象づけ)
現在経験したことが記憶にのこるためには、まず、それが印象づけられることが必要である。これを記銘、または印象づけとよぶ。(中略)
(二)把持(はじ)
いったん記銘されたことが、長い期間にわかって保ちつづけられているとき、それを把持とよぶ。(中略)
(三)再生
記銘され、把持されている印象は、なにかの機会に思い出そうとすれば、ふたたび意識にのぼらせることができるし、また、意思の力を借りなくても、突然浮かび出してくることもある。これが再生である。(中略)
(四)再認
たとえば、以前に、どこかで会ったことにある人の顔を見て、「あ、あの人だ。」というようなことは、よくある。それが再認である。
・「記憶」にたいして、つぎに忘却ということを考えてみよう。「忘却」には、心理的に二つの意味がある。第一に、記銘が不十分のため、再認はできても、再生はできなかったり。あるいは、再認すらむずかしいばあいである。
第二に、記銘や把持が確実でも、なにかの理由で再生が妨げられているばあいである。
・「自分が不愉快なのは、なにか自分に足りないところがあるのではないか。」ということを、いつも考えていればいい。ところが、私たちは不愉快だと、たいてい、それをひとのせいにする。「私は正しい。まわりが悪いんだ。」という考えから出発すれば、不愉快さはすこしも消えないで、いよいよ腹が立ってくるだけである。
・いつも不愉快でたまらないとこぼす人は、けっきょく、なにもしようとしないで、じっとしている人である。それは、むしろ、無精でじっとしているから不愉快になるので、いわば、自分の無精に対して自分を罰しているようなものである。不愉快は苦痛とちがって、自分のなかから出てくるものであり、苦痛だからといって、かならずしも不愉快になるのでない。
・八つのパソナリティーの型を考えた。
(1)外向的思考型。自分の生活活動を、すべて客観的に事実を即して考えるタイプ。(中略)
(2)外向的感情型。感情の命ずるままに生きるタイプ。
(3)外向的感覚型。現実主義者。
(4)外向的直観型。将来にたいする予期の態度が強く、いつも新しい可能性を求め、どんな生活も長くつづくと牢獄のように感じる。
(5)内向的思考型。主観による思考を主にする、観念的なタイプ。(中略)
(6)内向的感情型。ものしずかで、万事を主観的な感情で処理しようとするタイプ。
(7)内向的感覚型。外からの刺激を、自分の主観にそって受けとるタイプ。想像的な芸術家ではそこに表現欲がともなう。
(8)内向的直観型。空想家、あるいは神秘的な夢想家や預言者のタイプ。
・「習性」は「習慣」の組合せである。ひとりの人間には、いろいろな習慣と習性が、まとまりある行動傾向の全体をつくる。それがパーソナリティなのである。
・心理学は、一言でいうとパーソナリティを研究する学問であるが、それはひとりひとりのパーソナリティを理解することによって、人間関係を円滑にするテクニックを考え出すことを一つの目標としている。
・私たちは自分自身を知るということは、なんでもないことのようでいて、じつは、いちばんむずかしいことなのである。
●書籍『初歩 心理学~人間関係をよくする道具』より
南 博 著
光文社 (1958年11月初版)
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