小川 正久 氏 書籍『僕は少年社員』(文芸社 刊)より
このページは、書籍『僕は少年社員~すべての少年と永遠に少年の心を持つ人に贈る』(小川 正久 著、文芸社 刊)から、良かったこと、共感したこと、気づいたことなどを取り上げ紹介しています。
・当時、筑摩書房独自の検印用紙というのがって、一枚の用紙に五十の升目がついていた。その升目の中に一つずつハンコを押していった。それをあとで製本屋さんが裁断して本に貼り付けていくわけである。
・検印用の印鑑は著者にとって大切なもので、発行する本の部数を確認したいといった著者側の意向もあり、作業が大変なので依頼があれば著者のお宅にお邪魔して作業を行っていたが、編集者が著者に信頼されて印鑑を保管している場合もあった。
・大人たちが私にかけてくれた温かい思いは深く心に刻みこまれ、一生忘れることのできない宝となった。
・「不来方」ってどう読むの?(中略)
こずかた(中略)
「不来方のお城」というのは、十六世紀末に南部藩の居城としてつくられた盛岡城の別名なので、地元の人なら知らないとう人はほとんどいないはずである。
・社運をかけた「現代日本文学全集」のヒット(中略)
第一回の配本は『島崎藤村集』であった。これが売れに売れて、総計二十八万部達した。第二回の配本は『芥川龍之介集』、第三回は『森鴎外集』(中略)
この「現代日本文学全集」の発行総部数は千三百万冊にのぼり、空前の売れ行きを示した。
・古本屋で初版本探し(中略)
神田の古本街(中略)
はずれのほうには専門書や理数系の本が多く、その他の文学や芸術、歴史、生活一般といった本は中心街に多い。
・象嵌原本(中略)
初版が出ると校正をして誤植や脱字などの部分を見つけ、そのページに「ふせん」をつけておき、次の再版のときに訂正するための原本のようなものを作成するが、それを象嵌原本といっていた。(中略)
印刷技術が飛躍的に発達した現在では象嵌原本とは言わず、一般に「訂正原本」と言っているようである。名称はともかく、それは出版社にとって非常に重要な原本であることに変わりない。
※補足:象嵌原本は、「ぞうがんげんぽん」と読む
・筑摩書房は最上の本造りをめざしていた(中略)
本の背をはがすと分かるが、寒冷紗や細い糸で綴じられているのが見える。これを「かがり糸」といい、たいていの本は三本または四本のかがりになっている。当然、三本より四本のほうが丈夫に決まっている。(中略)
三本使用の出版社も多かったが、筑摩の本はすべて四本であった。このことは製本業者の間では暗黙の了解になっていた。
・筑摩書房の創業者・古田晃といえば、豪放磊落で知られ、出版業界では歴史に残るような人物だった。古田社長のことについては、昭和五十七年十月に野原一夫さんが著した『含羞の人―――回想の古田晁』(文芸春秋刊)やその他の本に詳しく描かれている
※補足:goo辞書によると、豪放磊落(ごうほうらいらく)とは、気持ちが大きく快活で、小さなことにこだわらないこと。
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・古田その人が求めたのは
本を出版することではなくて
それを介して
自分の好きな人間に直接ふれ合うことだったのではないか
あるいは人間を発見することだったのではないか------(竹内 好)
※補足:古田さんとは、筑摩書房の創業者・古田晃さんのこと。
・筑摩書房の社名の由来について
古田晃社長は、長野県東筑摩群筑摩地村(現在の塩尻市大字北小野)の代々の士豪の家に生まれた。
出版界に入る覚悟を決めた古田社長は、昭和十五年の初冬、親友の臼井吉見先生を訪ねてきて、「何か出版社らしい屋号を考えてくれ」と頼んだという。いろいろ考えあぐねた末、臼井先生の頭にふっと浮かんだのが、「千曲川旅情のうた」のあの千曲川だった。「千曲書房がいい」ということで、千曲書房にしようと決めた。
ところが、それを聞いた臼井先生の奥さんが、「千曲だと“センキョク”と読み間違えられるから、筑摩県の筑摩がいい。古田さんの故郷も、もともと筑摩県ですし」と助言した。
※補足:「千曲川」と書いて「ちくまがわ」と読む。
・筑摩というのは古田社長の出身の群と村の名前であるばかりではない。明治の初年までは松本を中心とする南信一帯と、飛騨を併せて筑摩県と呼んでいた。筑摩は昔から由緒ある地名
・出版業界はただ利潤を追求する企業体ではなくて、文化的理想をめざした人たちの集団と考えたためである
※和田芳恵 氏談
●書籍『僕は少年社員~すべての少年と永遠に少年の心を持つ人に贈る』より
小川 正久 著
文芸社 (2001年3月初版)
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