稲葉 茂勝 氏 書籍『調べよう! 日本の本屋さん』(ミネルヴァ書房 刊)より
このウェブサイトにおけるページは、書籍『調べよう! 日本の本屋さん』(稲葉 茂勝 著、秋田 喜代美 監修、ミネルヴァ書房 刊)を読んで良かったこと、共感したこと、気づいたこと、こんな視点もあるといった点などを取り上げ紹介しています。
・日本の出版のはじまりはお寺から
鎌倉時代から室町時代にかけて、寺院による、仏教書の開版(出版)活動が京都と鎌倉でさかんにおこなわれます。そしてこれが、お金をかせぐ事業へと発展していきました。
「五山」(ござん)での出版
鎌倉時代末期から室町時代にかけて、京都と鎌倉の五山(五大寺院)では、「五山版(ござんばん)」とよばれる仏教書の出版がさかんにおこなわわれました。この出版は、版木を彫って本を印刷するもので、「開版(かいはん)」とよばれます。(中略)
そのころ、中国から版木を彫る職人もさかんに来日します。五山版ととも、日本の出版技術も急速に発展していきました。
・日本最古の書物
日本でいちばん古い本は、飛鳥時代(592~710年)の615年に聖徳太子が書いたとされる『法華義疏(ほっけぎしょ)』だと考えられています。これは手で書かれた仏教の本で、法華経の解説書です。
・海外では? 書物の持つ3つの原則
そもそも書物には、つぎの3つの原則があると考えられています。
①コミュニケーションの道具として役立つ
②文章や絵などで内容を伝える
③出版され流通する
世界的に見て初期の書物には、粘土の板に文字を刻みつけて乾燥させたもの、古くはエジプトのパピルスの巻物のように紙をぐるぐるまいたもの、お経のように紙をぐるぐるまいたもの(折本・おりほん)などがありました。
その後、とくに製本された書物のことを「本」と言うようになります。なお現代では、広い意味では電子書籍やマイクロフィルムも本に含むことがあります。
・日本出版文化は京都から
初期の出版文化の中心地は、なんといっても京都です。京都は、日本の出版文化の原点となりました。それは、ひとつには寺がたくさんあったからです。やがて京都でつくられた本を大坂や江戸へ持っていく本屋さんがあらわれます。
本屋新七にはじまる
商人としてはじめて出版をおこなったのは、京都の本屋新七という人です。彼は、江戸時代初期の1609年に『古文真宝(こぶんしんぽう)』という本を出版しました。「本屋」と名のったのは、新七あはじめてだといわれています。
これにつづき、多くの本屋が京都に開業します。出版された本の数もどんどん増えていきます。こうして京都で日本の出版文化が花開いたのです。当時の本屋では、仏教書や漢文の本など、教養を身につける「物の本」の商いを行っていました。
・日本最古の本屋は、江戸時代のはじめごろにできた永田文昌堂です。17世紀のはじめごろから、おもに仏教書の商いをおこなっています。また、法藏館や平楽寺書店も、江戸時代から営業をつづけている仏教書専門の本屋です。
・徳川幕府は学問を奨励し、文化を育てることを重んじました。これにより、本屋さんの発展や出版点数の増加にもつながりました。本の出版が増えるということは、本屋さんの数も増えることを意味しました。
・江戸の本屋の勢いをつけたのは、須原屋茂兵衛という人だといわれています。茂兵衛は、日本橋に店をかまえ、のれんわけをくりかえして店舗を増やしていき、江戸最大の本屋として繁盛します。また、同じく江戸で大活躍した蔦谷重三郎は、当時の人気作家だった山東京伝などの本や、画家の喜多川歌麿、東洲斎写楽(とうしゅうさい しゃらく)などの浮世絵を出版し、大流行させました。
・庶民に読書を広めた貸本屋さん
江戸時代も後半になると本屋さんがどんどん増え、本が庶民にとってますます身近なものとなります。しかし本は値段が高くて、庶民にはなかなか手に入りません。そんな庶民の味方が、貸本屋でした。
・当時の貸本屋の仕組み
19世紀に入るころ、江戸には650軒もの貸本屋があったといわれています。当時の貸本屋は、本屋から本を仕入れ、常連の客の家をまわって本を貸しだしました。一軒の本屋にはだいたい100人以上の常連客がいたと推測されています。すなわち、当時、貸本屋で本を借りて読んでいた人の数は、約7万人にもなります。当時の江戸の人口が約100万人だったので、その割合は、とても大きかったと考えられています。
本を借りる人は、「見料(けんりょう)」(料金)をはらいます。料金は、本の値段の約6分の1です。貸本屋の本は、おもに民衆向けに平仮名で書かれた娯楽的な読み物が多かったとみられています。貸し出し時期は3日~7日以内などのように決められてりました。
・貸本屋から出版社になった吉川弘文館(中略)
吉川弘文館は、現存する出版社のなかでも長い歴史を誇る会社のひとつ。創業当初は本の仲介業をおこなっていたが、1863年、貸本屋のあとを継ぎ、江戸と京都・大坂のあいだを行き来して、積極的に本を買いつけた。(中略)
1877年(明治10年)ごろから出版も行うようになり、貸本屋をやめて出版業に専念した。
・江戸のまちで読まれた「かわら版」(中略)
かわら版売りは、記事をおもしろおかしく「読」んで聞かせながら「売」り歩いていたので、「読売」ともよばれていました。
・江戸のまちで読まれた「かわら版」(中略)
1615年の「大坂夏の陣」についてえがかれた木版刷りの「大坂安部之合戦図」は、現存する最古のかわら版です。
・かつて、大学のある地域には古本屋がありましたが、近年、古本屋の数はめっきりへってしまいました。大阪の日本橋にあった古本屋街もなくなり、梅田に古本屋が集まっています。
・明治時代に生まれた「取次」
江戸時代までの本屋は、出版も小売りも一手におこなっていました。ところが、明治時代になると、分業化が進んでいきます。そうしたなかで「卸売り」を専門におこなう問屋があわられます。これが、「取次」です。当時は「売捌所(うりさばきじょ)」とよばれていました。
取次は、出版をおこなっていた博文館が1890年(明治23年)に「東京堂」をたちあげ、取次業を専門におこなったことにはじまったといわれています。その後、東京堂、東海堂、北隆館、大東館の4つの取次が、現代に通じる本格的な流通システムをつくりあげます。
・本屋さんと学校
本屋には、小・中・高校と密接な関係があるところも多いです。地元の学校を訪問して、教科書や問題集、学校図書館用の本などの配達をおこなっています。このように店から外へ営業に出かけることを「外商活動」といいます。
●書籍『調べよう! 日本の本屋さん (本屋さんのすべてがわかる本)』より
稲葉 茂勝 著
秋田 喜代美 監修
ミネルヴァ書房 (2013年12月初版)
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