このページは、書籍『日本出版販売史(橋本 求 著)』から、良かったこと、共感したこと、気づいたことなどを取り上げ紹介しています。
・世界最古の印刷物 国宝「無垢浄光大陀羅尼経」法隆寺蔵
西暦770年
・慶長十四年刊の「古文真宝」の刊期に“室町通近江町本屋新七”とあり、現存する古刊本で本屋と記したのはおそらくこれが最初のものらしい
・博文館の名は、明治、大正の出版史上における最も輝かしい存在であった。
・同文館(森山章之丞)
・雑誌元取次の存在一覧表
・書物が貴族、僧侶など特権階級の独占物だった時代は別として、一般的にいわゆる商品として取引されるようになったのはいつ頃のことか、はっきりとした記録はつかめないが、唐本の輸入・覆刻がようやく盛んになった足利時代から安土桃山時代には、出版や取次などをする書肆らしいものは芽生え、平安の都を中心に次第に開花していったことが考えられる。
・徳川時代に至って政治の中心は江戸に移ったとはいえ、京都はなお僧侶、学者、公卿など知識人の集合地だったから、出版業はどこよりも早くこの地に発達した。家康の出版奨励政策もてつだって、儒書、仏書などがとくに賑々しく板行されたことは、貞享、元禄の頃の書籍目録をのぞいていてもうかがわえる。(中略)
京都にはまた、以上述べた仏書、美術書のような、古い文化の伝統に根ざした出版のほかに、京都大学、同志社大学、立命館大学、さらに関西大学、関西学院大学、奈良教育大学をふくめた学識の府であることをバックとした出版も、東京のそれに対抗する一勢力たる地歩を占めてきた。
・「キング」の売れた理由
「キング」が一挙にしてあれだけの部数を売り上げたということは、第一に、内容が一家一冊を目指す万人向きの面白くて為になる雑誌ということで、いままでない国民大衆雑誌のスタイルを創造したこと、第二に、最初から大部数発行に依る格安の値段で打ち出したこと、などが原因だったと思いますが、販売の面から見てももう一つ、創刊当初の徹底した宣伝ぶりを見逃してはならないと思う。
・百貨店の加入許可条件
一、 書籍の陳列を四階以上にすること。四階のない場合は最高層とする。
二、 書籍の陳列場の坪数は二十五坪以内とする。
三、 書籍の配達および外交販売をしないこと。
四、 売出し等の場合でも書籍には福引景品をつけないこと。
五、 内部関係者と雖も書籍の割引販売をしないこと。
六、 加入申込書には組合員二名の紹介を要す。
・明治七年の古い統計を見ると、新聞広告件数のうち約半数を書籍が占め、八、九年以降には売薬、化粧品などがふえてきたが、やはり書籍がいちばん多かった。
・昭和七年といえば、小川菊松の「商戦三十年」(誠文堂新光社)、山本実彦の「満・鮮」(改造社)、野間清治の「栄えゆく道」(講談社)と、出版人の著者が相ついで現れた年であった。
・「世界文学全集」の宣伝のトップをきった二ページ広告
・大正十四年以降は東京堂、東海堂、北隆館、大東館の四軒に限られ、新しい大取次会社の擡頭を認めなかったので、いわゆる四大取次中心時代が十数年間つづいたのであった。
・昭和一三、四年頃に中央、地方で活躍した大、中、小の有力取次店と、取次業務を兼ね行なっていた各地の書店のうち、主なところをあげてみると次の通りである。
・被占領時代の売行き良好書ベスト・テンを、「東販十年史」には次のように記録している。
・出版は文化的事業であるが、とくべつ国家からの保護をうけているわけではない。純然たる自立企業である以上、その経営基礎が強固でなければ良い仕事はできない。
・“百七十万もの部数を毎月出して、宣伝費ゼロ、返品ゼロの雑誌”-----まるで出版人の理想を絵にかいたような、こんな途方もない雑誌が現に存在している。いうまでもなく、家の光協会の「家の光」である。
・肥料、種苗、農薬、農機具かたや日用品にいたるまで、何でも預金と差引勘定で購入できるしくみになっていて、「家の光」の誌代も、書店で雑誌を買うのとちがって現金を出す必要はなく、組合の帳簿の上でいつのまにか清算されているという次第である。
●書籍『日本出版販売史』より
橋本 求 著
講談社 (1964年1月初版)
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