このページは、書籍『滝田樗陰~ある編集者の生涯(杉森 久英 著)』から、良かったこと、共感したこと、気づいたことなどを取り上げ紹介しています。
・人は『中央公論』といえば、まずは滝田樗陰を思い出すもののようであった。
・樗陰が『中央公論』の編集者になったとき、彼はようやく二十三歳で、まだ学生であった。このとき『中央公論』は売行きが悪くて、廃刊寸前の状態にあった。樗陰は雑誌に小説を載せればかならず売れると主張して、経営者の麻田駒之助を説得し、ついにその夢を実現した。『中央公論』は号を追うて売行きを増し、雑誌界の権威となった。
・樗陰の生い立ち
滝田樗陰が本名を哲太郎といい、明治十五年六月二十八日、秋田市手形新町に生まれた。
・滝田樗陰は五尺にみたぬ短軀の持ち主だったけれど、体重は十八貫もあり、下腹は相撲取りのように丸く出張っていた。それに頬の真っ赤な、子供っぽい顔をしているので、夏目漱石などは彼を金太郎とよんだ。
・樗陰の編集者としてのえらさは、好き嫌いがはっきりしていて、自分の取り上げた作家はどこまでも面倒を見る点にあった。
・樗陰は取り上げた多くの作家のうち、もっとも大きく成長したのは谷崎潤一郎であろう。
・樗陰の一流好きは、そのほかいろんな面に発揮された。彼は娘たちに文房具ひとつ買ってやるにも、銀座の伊東屋まで出かけて、人の持たぬ高級品を選んだ。
●書籍『滝田樗陰~ある編集者の生涯』より
杉森 久英 著
中央公論社 (1966年11月初版)
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