このウェブサイトにおけるページは、電子書籍『竜馬がゆく(四) Kindle版』(司馬 遼太郎 著、出版社: 文藝春秋)を読んで良かったこと、共感したこと、気づいたこと、こんな視点もあるといった点などを取り上げ紹介しています。
・相手を説得するばあい、はげしい言葉をつかってはならぬ、と竜馬はおもっている。清河なら、そういう言葉をつかう。結局は恨まれるだけで物事が成就できない。
・江戸の町は、当時世界最大の都会のひとつで、人口は百万、ニューヨーク、ロンドンと肩をならべていた。が、この都会が世界の各都市とかわっているところは、その人口の半分の五十万が、武士であったことである。旗本、諸藩の定府、勤番侍などがその五十万で、かれらはすべて生産者ではない。国もとから送られてくる金で、消費専一の生活を営んでいる。町人は、五十万の武士の消費生活をたすけることで、三百年食ってきた。
・薩摩、長州、土佐、というのはそれぞれ天下をになう藩だと自負している。そのくせ三藩とも、自分の藩の運営についてはおそろしく保守的だった。ことに薩摩、土佐は、その頑固な身分制をあらためようとはせず、お目見得以下の身分の者がいかに英才でも藩政に参加させようとはしなかった。
・武市夫人富子は、半平太が獄に投ぜられてからは、畳の上には寝ていない。夜は板の間に着衣のまま身を臥せ、冬もふとんを重ねなかった。夏も蚊帳を用いず、夫が獄中にあるのとおなじすがたで屋敷に起き伏しした。(中略)在獄二十余月、富子はこの習慣を変えなかった。
・維新後は、新橋、柳橋に連日痛飲したころ酔って伏せると、不意に、「半平太ゆるせ、半平太ゆるせ」とうわごとをいうことがあったという。半平太切腹は、容堂が明治五年四十六歳で死ぬまでの間、他人には洩らせぬ悔恨になっていたようである。
・日本人に死を軽んずる伝統があったというのではなく、人間の最も克服困難とされる死への恐怖を、それをおさえつけて自在にすることによって精神の緊張と美と真の自由を生みだそうとしたものだと思う。
・半平太は遺言で、葬儀は神式にしてくれ、といったが、藩庁ではそういう異例をゆるさなかった。徳川時代というのは、徳川家の支配体制の保存のために、「すべて新規なるものは許さず」という家康以来の病的なまでの保守思想があり、土佐藩でもそうであった
・気と気でぶつかることだ。闘る・闘る、と双方同じ気を発すれば気がついたときには斬りあっているさ」「では、逃げればどうなるんです」 「同じことだ、闘る・逃げる、と積極、消極の差こそあれ、おなじ気だ。この場合はむこうがむしょうやたらと追ってくる。人間の動き、働き、の八割までは、そういう気の発作だよ。ああいう場合は、相手のそういう気を抜くしかない」
・読者は諒とされたい。
・勝の流儀は万事こうだ。自分の眼でたしかめぬとすまぬたちである。耳を信ぜず、眼で見てそのうえで物事を考える男であった。即物的思考法というべきだろうか。この点で、竜馬の思考法とそっくりであった。足を使い、眼を使ってじかに物に触れないと、物を考えた気がしない。
・当時一般の思潮を図式的にいえば、佐幕=開国主義 勤王=攘夷主義というものであった。 が、勝大学の教授たちは、「勤王開国論」ともいうべきもので、単なる佐幕家や勤王家とまるでちがう点は、世界観をもっていることであった。
●電子書籍『竜馬がゆく(四) Kindle版』より
司馬 遼太郎 (著
出版社: 文藝春秋 (1998/9/10)
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