このウェブサイトにおけるページは、書籍『人物を創る人間学』(伊與田 覺 著、致知出版社 刊)を読んで良かったこと、共感したこと、気づいたこと、こんな視点もあるといった点などを取り上げ紹介しています。
・生まれながらにして天から与えられている三要素があります。その第一が「徳性」です。(中略)「知能」(中略)それからもう一つは、物をつくり出す能力。これを「技能」といいます。
・本(もと)となるのは「徳性」です。それに対して「知能」と「技能」はどちらかといえば末にあたります。したがって、立派な人物に育つためにまず、本にあたる徳性をしっかり養い、あわせて末になる知能・技能を育てていくことが大切です。
・リーダーに要求される「中人」としての資質
例えば人の上に立つ場合、集まってくるメンバーは、それぞれ違う個性を持っています。その違う個性を結び合わせて一つの力にする。これが長と名の付くものの任務です。
野球でいえば監督。自分のいうことばかり素直に聞くような選手ばっかりを集めていても優勝なんかできません。それぞれ異なった個性と技能を持っている選手を集めてこそ、強力なチームが編成できます。
・「中学」のテキストは『中庸』です。
・「学びて然(しか)る後(のち)にその足らざるを知る」という言葉あります。学べば学ぶほど自分の足りなさがわかってくる、という意味ですが、学ぶということは、そうしたものだと思います。(中略)
学べば学ぶほどわからないところが出てくるのです。
・「人間学」には、「小学」「大学」「中学」の三学がある。
「小学」というのは、誰でもいつでも、どこでもわきまえておくべき基本的なことを身に付ける学問。
その上に、世のため、人のために良い影響を及ぼすような人物、いわゆる「大人(たいじん)」となるための学問「大学」がある。
もう一つの「中学」は、異質のものを結び合わせて新しいものを創造していく「調和と創造の学」であると同時に、人の長としてそれぞれの個性を生かしながら、そこに一つの働きを生み出していくような人物を「中人(ちゅうじん)」といい。それを学んでいこうとする学問である。
・本来人間というものは清潔を好むものです。だからおしっこをしたり、うんちをしたりすると、生まれたばかりの子供は「清潔にしてもらいたい」と泣いて訴えます。
それに応えて母親も、おしめを取り替えてやることで、子供の清潔を好む心を育てていきました。
ところが最近は、紙おむつなんてのができて、おしっこをしてもさほど気持ちが悪くない。したがって清潔に対して不感症になる。それが歳をとってから、贈収賄など、汚いことを平気でやるような人間になる下地を作っていることを、一概には否定できません。
・習慣化の真髄は無意識の実践
・読者というのは、往々にしてすぐに昔と今は時も違うし、程度も異なる。昔は昔、今は今。書かれていることは昔のことだといって、これを行うことがなかった。
・人間の教育には三つの場があります。まず家庭、それから学校、そして社会。(中略)
いずれにしても家庭教育というものは、親の後ろ姿を見せ、理屈なしに良い手本を示して、自然に教えていくという特徴があります。
・釈迦が唱えた「慈悲」とは
そして、お釈迦様は、この「仁」のことを「慈悲」といいました。「慈」と言うのは慈しむ、愛情豊かに可愛がることをいいます。慈愛ともいいます。
一方「悲」は哀しむ心。これは相手の悲しみを我が哀しみと受け取る心。つまり、孟子の唱えた「惻隠」に相当するものです。
それがお釈迦様の場合には、仏性が整ってくるとこの心が形となり、「抜苦与楽」の働きとなって外に現れてくる、といっております。
・人が「知る」には、学問をして知る「学知」のほかに、悟って知る「覚知」があります。この両者には同じ「知る」でも大きな差があります。孔子が「五十〇にして天命を知る」という、その天命を知ったのは「覚知」といっていいと思います。
・孔子は、自分の悟った世界を、そのまま丸出しにはしませんでした。若い弟子が多くわかる境地にまで達していないと判断したのでしょう。だから、孔子は「五十にして天命を知った」けれども、天命に関する解説はしていません。それは、命を知るということは「学知」ではなく、「覚知」すなわち悟る以外に方法はない、ということをいいたかったのだと思います。悟る域に達するには、やはり段階があるということです。
・陰陽はコンピューターの基本原理
陰と陽ということは、今の言葉でいうとプラスとマイナスです。電気も非常に複雑なように見えるけれども、突き詰めていけば陰電気と陽電気、陰陽の二極に分かれる。この陰陽を離したり付けたりいろいろすることによって、いろいろな働きが生じておるわけです。このように電気の原理というものは、複雑そうに見えて、実は簡単なんです。
・世のリーダーとなる人は「すべからく易を学ぶべし」です。中国では「易を知らんずんば宰相となるなかれ」あるいは「宰相となるなかれ」といわれてきました。易を知らない人間を総理大臣にしてはいけない。それぐらい「易」というものを大切にしてきました。
・ 「松下幸之助商学院」は、パナソニックショップ(系列電器店)の後継者を養成するために昭和四十四年にできた“学校”ですが、私のところで学院の講師となる二十数名が五十日間で寝食を共にしながら研鑽したことを思い出します。(中略)
そして松下さんがこよなく愛したのが、京都にある「真々庵」です。同庵は、いわば松下さんの別荘で、現在も迎賓館として使われています。その庭の一画に小さな社(やしろ)があります。松下さんが森羅万象、万物の根源に感謝と祈念の思いをこめてつくったお宮で「根源さん」と呼んでいました。松下さんが大事なことをなそうとする時にはこの社の前に座り、いわゆる天の声、神の声を聞いたとされる所です。
・私も「真々庵」に何回か招かれたことがあります。ここの庭が普通の庭と違うところは、どこに行っても目立ったところがないということです。(中略)
なぜというと、物には一つ一つ、それぞれの持ち味がある。大きい木だけが木ではなく、その下に咲く小さな木も、また1つの大切な生き物である。一木一草に至るまで、その生命の存在には意味がある。だからこれをを大切にし、大きな木の下に小さな草花まで日の目を見るようにしてあげなければならない------こういって、同庵を購入した当初は、有名な庭師がつくった庭だったらしいのですが、自分の閃きにあったように整えていった、とおっしゃっていました。
・「一万回の祈りを捧げるとは、一万回考えることである」と幸之助さんはいっています。一日に二回だけ考える。三回考える。十回考える……と増やしていけば、見えていなかったものも、徐々に明らかになり、理解できなかった人も理解してくれるようになる。そうした人が一人増え、二人増え、そしてだんだんと広がり、厚みを加えていて一つのものが完成するんですね。
●書籍『人物を創る人間学』より
伊與田 覺 (いよた さとる) (著)
出版社: 致知出版社 (2010年2月初版)
※amazonで詳細を見る
Copyright (C) 2003-2024 eパートナー All rights reserved.