このウェブサイトにおけるページは、書籍『考える練習~頭の中の「使っていないソフト」を動かす。』(保坂 和志 著、大和書房 刊)を読んで良かったこと、共感したこと、気づいたこと、こんな視点もあるといった点などを取り上げ紹介しています。
・本を読むっていうのが、何カ数学の公式を教わるようなことだと思っている人がいる。本を読むからには、結論は何なのかっていうマス目を埋める答えを知りたい。だから、公式をいくら教わっても意味がないんだよね。公式を自分で立てられるようにならないとしょうがいない。
・でも本来なら、知識が増えれば増えるほど断定しなくなるはずだよね。断定する人っていうのは、たいして知識を持ってないんだよ。
・知れば知るほどわからないっていうほうがずっと面白いと思うだんよね。だから「わかった」って言う人に対しては、「浅薄だ」って思わなきゃいけない。
・結論だけほしいっていう人は、自分で何も考えたことがなくて、会議なんかでも自分では何も言わない人だよね、きっと。
・農薬使っているから、昆虫や水生生物がそこで生きられない。それで鳥も寄ってこない。そういうものを、人間はみんな食っている。放射能がどうだとかセシウムが何ベクレルだとか言っても、実際にはもっとものすごい量の農薬を食っているんだよ。
・人生っていうのは成長と深みだろう。そのために生きているんだよ。
・いまじゃぼくもアマゾンで何百冊買ってんだか知らないけど、そんな買ってもしょうがないんだよ、どうせ読まないんだから。
・人間動物園っていうにもかつては存在したんだよ。ウィキペディアでも調べられるよ。
※参考:ウィキペディアのウェブサイトで「人間動物園」について見る
・新聞とか何かの入門書とか解説書とかだったら、テレビを流しっぱなしでも読めるんだけど、小説は読めない。小説はそこがすごいんだよ。
・小説を書きたいから小説家になるんだよね。「小説を書いて有名になりたい」「小説を書いてカネがほしい」ではない。本当は「小説を書きたい」から始まってるはずなんだ。それがわからなくなっているっていうのは、やっぱりマネーとか現代社会に心が蝕まれているんだよ。
・芥川賞の発表があるときだけ芥川賞の話題にする人がいて、そういう人たちは芥川賞を取った作品がその時期のナンバーワンの小説だと思っていたりするんだけど、あれ、ただの新人賞だからね。(中略)
菊池寛が芥川賞を創設した動機は、新人を励ますため。
・マグニチュードって1上げると地震のエネルギーは32倍になるんだよ。だから地震学者は、30分の1の規模までしか想定していなかったことになる。
・福島県知事は被害者のような話し方をするけど、今回の事故において半分は加害者でもあるはずだよね。(中略)
原発を受け入れてきた自治体は加害者でもあるという了解も自覚も生まれない。原発の地元の人たちは自分たちが何をやっているのか、まだわかっていないみたい
・「運」と折り合いをつける(中略)
そういうのを行政に任せてしまうと、その避難所に100人いたとして、支援部物資が95個しかないと、不公平になるからと配らないって言うんだよ。だから行政の倉庫には配れない支援物資が山盛り眠っているって。
だけど、そんなの誰かが謝ればいいわけでしょう。「平等にできなくてすみません」って言って交渉すればいい。そういう謝れるやつがいないんだよね。
・ペットって、いまみんなペットショップで買うけど、それってかつての奴隷売買みたいなことをいま人間は動物にしているようなものだと思うんだよ。
・ネットの時代ってひとつ大きな変化はさ、いままでは聞こえなかった声がもろに聞こえるようになったってことがある。
・------文章の世界でも、天性の才能のあるなしということは感じられますか?
文章はね、散文のリズム感っていうのがあるかどうかって話なの。(中略)
だから読んでいてリズム感が悪いなと思う人は、書いてることが退屈なの。そこでイメージが動かない。
・どうしてレコードができたときにコンサートがなくなるって考えなかったんだろう。それはやっぱりコンサートに何かがあるわけでしょ。ていうか行けばわかるけど、生の強みは圧倒的にあるよね。そういう生のよさをわかっている人たちがいっぱいいるから、レコードができてもカセットテープができてもコンサートはなくならなかった。
・本って、書く側がこの女の子は蒼井優だって思って書いても、読者は佐々木希だったり、世代によっては有馬稲子の顔をイメージしたりする。書き手のイメージは絶対に正確には届かない。(中略)
文字からイメージするというのはそういうことだから。だからぼくが『カンバセイション・ピース』で、家の中をどれだけ詳しく描写しても、読者はそのとおりの家の形には読んでいない。それは誤読なんだけど、必要なブレでもある。
・ぼくは、人間はこうなったときにこうするものであるという考え方が嫌いなんだよ。何か事件が起きると、これこれの環境が彼を犯罪に走らせたとか言うけど、全部後付けでしかない。ある状況になっても、そういう行動しない人の方が圧倒的に多い。しない人の方が多いのに、事件から話をつくると、まるでそれが必然であるかのような言い方になる。それで人間がわかったみたいな、人間の思考の過程をトレースしたかのような錯覚を持っちゃいけないんだよね。
人間は10人が同じ状況に置かれたところで、誰も同じ行動なんか取らないよ。そのうちの1人だけが犯罪を犯す。
・飲食店だったら、「ワタミ」みたいなチェーン展開の店があれば、隠れ家みたいにして少数の客を相手に高い料理を出している店もあるじゃない。いまの出版って基本的に「ワタミ」的な発想しかしてないよね。
・19世紀とかの小規模の出版の時代に出版社はどうやっていたのかって、出版社の人たち、ちゃんと調べたことないでしょう。草創期がつねにヒントになるかはわからないけど、まず草創期のことも調べもしないで、出版の外にいる、出版に愛も関心もないような人たちが言う数字だけの分析をつけられたであたふたしている。しかも、あたふたしているだけで、営業も編集も誰も火事場の馬鹿力的な力を出さずに、本の帯とか広告とか既存の枠をドカーンと変えようともしない。紙媒体がなくなるんだったら、なくなる前にいじりようはいくらでもあるんじゃないの。
・あとがき(中略)
この本の総論的なことは編集の三浦君(中略)
私は好き勝手にしゃべっているようで、じつは三浦君にたくみにコントロールされていたのかもしれない。その「コントロール」というのは、手綱で馬のはやる気持ちを抑えるコントロールでなく、馬が最も自由に走ったと錯覚する名騎手のコントロールのことで、私が作者と作品の関係としてこの本の中で何度も言っていることだ。
●書籍『考える練習~頭の中の「使っていないソフト」を動かす。』より
保坂 和志 (著)
出版社: 大和書房 (2013年4月初版)
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